[ポーランド]クラクフ:ユダヤ人街とゲットーへ[Poland]Krakow: Jewish ghetto.

Poland

ズィン ドブリー (Dzien dobry)!(ポーランド語でこんにちはの意)

今日は、ユダヤ人居住区を巡るウォーキングツアー(Free Walkative Tour)に参加してきました。

カジミエシュ(Kazimierz)を中心に、以下の場所を周ります。(地図の青印の箇所)
15世紀頃に、旧市街地にあったユダヤ人街が現在のKazimierzに移ったそうです。

  1. Old Synagogue (Alta Shul) オールドシナゴーグ
  2. Remuh Synagogue レムシナゴーグ
  3. Plac Nowy Square ノヴィ広場
  4. Passerelle Père Ojca Bernatka 橋
  5. Apteka pod Orłem イーグル薬局
  6. Ghetto Heroes Square 英雄広場
  7. Oskar Schindler’s Enamel Factory シンドラー工場
1. Old Synagogue (Alta Shul)
黄色の傘が集合場所の目印

シナゴーグというユダヤ教の教会の前で集合です。このシナゴーグは、Old Synagogueという意味のイディッシュ語Alta Shulとも呼ばれているそうです。現在は博物館となっています。イディッシュ語とは、東欧に住むユダヤ人が話していた言語でドイツ語に近いらしいです。

2. Remuh Synagogue レムシナゴーグ

レムシナゴーグは、先のオールドシナゴーグの100年後位に建てられ、オールドに対してニューシナゴーグとも言われていたそう。現在クラクフ市内にある現役で使われているシナゴーグが2件のうちの一件です。

ヘブライ語で書かれています。

壁には聖書の一部がヘブライ語で書かれています。
3. Plac Nowy Square ノヴィ広場

ここは、ユダヤ人居住区カジミエシュ(Kazimierz)の中心地となる広場で、様々なお店が円形に立ち並んでいます。

4. Passerelle Père Ojca Bernatka 橋

Passerelle Père Ojca Bernatkaという歩行者専用の橋で対岸に渡ります。

躍動感のあるオブジェが面白い

この橋を渡ると、ゲットーと呼ばれるエリアに入ります。

ゲットーとは、ユダヤ人が強制的に住まわされた居住区のことで、それまでカジミエシュ(Kazimierz)に住んでいたユダヤ人は、ドイツ軍によって強制的にゲットーに移動させられました。当時は、ゲットーを取り囲むように壁があったそうです。

ゲットー入り口にある説明文

ゲットー入り口にある説明文には、下記のようなことが書かれています。

「1941年-1942年、この場所にはドイツ軍の職業斡旋所があり、ここからユダヤ人が強制労働に送りこまれました。また、1941年から1943年にかけては、医師のJulian AleksandrowiczとBernard Bornsteinにより、慢性疾患や療養中の人々にとっての拠り所ともなりました。」

5. Apteka pod Orłem イーグル薬局
薬局。現在は博物館になっています。

この薬局は、ドイツ占領下時代ゲットーにあった唯一の薬局。ドイツ軍の許可のもと営業していたポーランド人のTadeusz Pankiewiczは、第二次世界大戦中、秘密裏にユダヤ人達の手助けをしていたそうです。

6. Ghetto Heroes Square(Plac Zgody) ゲットー英雄広場

薬局の目の前に広がる英雄広場。ユダヤ人はここに集められ、強制収容所に送られました。収容所に送られた人々のその後の消息が分からないことについて、まさか列車が森に消えるなんてありえないと、人々はそのうわさを信じていなかったそうです。
強制労働の為と信じて疑わなかった人々。胸が詰まります。

広場の端にはドイツ軍の詰所だった詰所が残っていました。
68個ある椅子のオブジェは、68000人のユダヤ人を表しているそうです。
詰所跡の壁に掲示されていた

ユダヤ人も黙っていたわけではなく、若者達の間にはドイツに抵抗する地下組織が作られ、1942年12月22日計画を決行、10人のドイツ人を殺傷するという出来事があったそうです。しかしその後若者達の多くが捕えられ殺されてしまったそうですが。

7. Oskar Schindler's Enamel Factory シンドラーの工場

多くのユダヤ人の命を救ったとして知られるシンドラー。「シンドラーのリスト」と映画にもなりました。

ドイツ人のシンドラーは、初めは単に戦争で金儲けをしようという魂胆でクラクフに来て、特にユダヤ人どうのこうのなどの考えは持っていなかったそうです。しかしある日ナチスがユダヤ人を殺める残酷さを目にして考え方が変わります。シンドラーは、ユダヤ人を助ける為自社工場をゲットーの外に作り、そこでユダヤ人を労働させ自身の管理下に置くことで守ろうとしました。何度も自分の財産を投げ打ってナチスに賄賂を送り、彼らが殺されるのを阻止し、結果1200人もの命を救ったのです。

シンドラーの工場跡
入り口にはシンドラーによって助けられた人々の写真が掛けられています。
シンドラーによって救出されたユダヤ人の人々

ユダヤ人を救うべく最後まで献身的に闘かったシンドラー、戦争が終わった時には無一文だったそうです。

最後にガイドさんが、多くのユダヤ人が死んでしまったが、クラクフのポーランド人の中にはユダヤ人を助けた人も沢山いたのも事実だ、と言っていたのが印象的でした。

戦後、多くのユダヤ人がイスラエルに移住したそうです。
そういえば、イスラエルで会ったホロコースト生存者の女性はオランダから移住したと言っていたのを思い出しました。「祖国を持たないイスラエル人」とはこういうことなのだろうか。

明日はウクライナに出発します。