今日は、昔テレビのドキュメンタリー番組で見た、あの橋に行ってみようと思います。
その前に、2017年にオープンしたばかりのWar Childhood Museumへ。
ボスニア紛争のさ中子供だった人達から、当時のカバンや水筒、バレエシューズ、本、おもちゃなど、思い出が詰まっている所有物を集め、エピソードや証言とともに展示している博物館です。
入館料10マルク(約640円)。
博物館と同じ名前の本が出版されており、日本語に訳された本も売られていました。
その後、旧市街にあるとコーヒー屋さんで一服。Andarという名のお店は元々靴屋さんだったらしく、靴や木型でデコレーションされています。
コーヒーが美味しいらしいですが、私は気分だったのでクランベリージュースを飲みました。料金3,5マルク(約226円)。
これはEternal Flame(永遠の炎)と呼ばれる炎です。第二次世界大戦の犠牲者を弔う炎で、その名の通り絶え間なく光を灯しています。
大通りの側で本のマーケットが開かれていました。知らない街で、本屋さんを見つけるとホッとするのはなぜだろう。
しばらく青空本屋さんを覗いた後そのまま歩いていくと、モダンな高層ビルが見えてきました。奇抜な形。オフィスビルかなあ。
かと思うと、砲弾跡が生々しく残る建物がここにもありました。
そんな相対する建物の前に、今日の目的であるその橋がありました。
今回ここを訪れたかった理由は、昔ドキュメンタリーで見た、サラエボ包囲の中に見た、あるカップルの最期の姿が脳裏に焼き付いていたからです。
そのカップルは、ボシュニャク人女性のAdmira Ismicとセルビア人男性のBosko Brkic。砲弾が飛び交う街から逃れるため、二人は街を離れることを決意します。しかし、そのためにはスナイパー通りと呼ばれたこの危険な橋を渡らなければなりません。二人は手に手を取り、文字通り決死のダッシュを試みますが、狙撃されてしまいます。その場に倒れ即死状態のBosko、ほぼ同時に撃たれたAdmiraは最後の力を振り絞って彼の元に這い寄ります。愛する彼の体を覆うように抱きしめ泣き叫ぶAdmira。ついに彼女も力尽きてしまいます。
近くのホテルにいたジャーナリストが、この光景を写真に記録していました。私がドキュメンタリー番組で見たのはその映像でした。
Admiraが撃たれた後もBoskoに寄り添いながら10分程生きていた、ということを初めて知りました。この10分間の彼女を想像すると、胸が締め付けられます。
宗教も民族も違うカップル(Admiraはイスラム教Boskoはキリスト教)に起きたこの悲劇は、サラエボのロミオとジュリエットとも言われています。しかし、彼らのようなカップルは当時のサラエボには多く、許されない愛ではなく、周りからも祝福されており、両方の家族ぐるみのつきあいがありました。宗教や民族に関係なく共存していたボスニアで起きてしまった紛争。分断が起きるということはそういうことなのだと思い知らされました。
ちなみに、この橋の名前のSuada and Olga Bridge(スアダとオルガの橋)は、サラエボ包囲の際、最初の被害者となったスアダとオルガから名付けられているそうです。
二人が渡ろうとしていた橋の向こう側をに渡り、遠回りしてホステルに戻りました。
夕方、ウォーリー達と皆でサンセットを見に行こうよ、とホワイト要塞(White Fortress)へ行きました。
下の写真は、坂の途中にあったMemorijal Kovači Sarajevoという墓地。
サラエボ包囲の犠牲になった、11000人以上の人達が眠っています。
要塞らしい塀が見えてきました。
白い岩石で出来ているのでホワイト要塞だそうです。
要塞の外側に出ると、サラエボの街を一望できます。
近くのRestoran Bijela Tabijaレストランで夕食をしました。
明日は、サラエボの南にあるモスタル(Mostar)に向かいます。